幼くして壇ノ浦の戦いで最期を迎えた安徳天皇。母・平徳子の気持ちを考えると…
この壇ノ浦の戦いで平家は敗北し、滅亡を迎えることとなりました。
この戦いで源氏方の指揮官を務めた源義経の活躍は有名ですが、戦いに敗北した平家、その中でも幼くして命を落とした平徳子の息子・安徳天皇に注目してみました。
1歳9か月で即位(まだ赤ちゃんじゃん!)し、6歳で亡くなった安徳天皇。どんな人物で、いったいどのような最期を迎えたのか書いてみました↓
- 安徳天皇の簡単な経歴
- 父・高倉天皇はどのような人物なのか
- 高倉天皇・平徳子から誕生した安徳天皇
- 治承三年の政変
- 以仁王の挙兵、平家の討伐
- 祖父・平清盛の死後、都落ち
- 京では後鳥羽天皇が即位
- 屋島の戦いで敗北
- 壇ノ浦の戦いで敗北
- 平家の滅亡、安徳天皇の最期
- 三種の神器の行方
- 安徳天皇の生存説
- 安徳天皇を祀った赤間神社
- おしまい
安徳天皇の簡単な経歴
- 寿永4年(1180年)2月21日 数え年3歳(満1歳2か月)で即位(第81代天皇)
治承2年11月12日(1178年12月22日)、安徳天皇は高倉天皇、平徳子の嫡男として誕生しました。
まず簡単に父・高倉天皇について解説します。
父・高倉天皇はどのような人物なのか
父親である高倉天皇は第80第天皇となった人物です。この高倉天皇の母は平滋子という女性で、この平滋子は平清盛の妻・平時子の異母妹にあたる人物でした。
つまり、当時、政界で権力を持っていた平清盛から見て、高倉天皇は義理の甥にあたる人物。
高倉天皇の父・後白河上皇と平清盛は朝廷内で権力争いをしており、この争いは長く続いていました。
二条天皇の崩御
高倉天皇の兄である二条天皇(第78第天皇)が1165年、崩御します。
この間、父・後白河上皇は平清盛の勢力に押され、思うように院政を行うことができず、政治決定の立場を失うこととなりました。
六条天皇の譲位
二条天皇の崩御後、二条天皇の息子であり、高倉天皇からみた甥である六条天皇が1165年、第79第天皇として即位。
しかしこの六条天皇の母・伊岐致遠女は身分が低かったため、これでは政治がまとまらないと、後白河上皇の意向により在位2年8か月で憲仁親王(高倉天皇)に譲位しました。
天皇となる
こうして仁安3年(1168年)2月19日、8歳で天皇となった高倉天皇でしたが、まだ幼いため父親である後白河上皇が政務を行うこととなります。
父・後白河上皇が六条天皇を早々と退位させたのは自身の院政を始めるためだったのです。こうして後白河上皇の院政は始まり、息を吹き返していくこととなったのです。
ですが、高倉天皇にとって平清盛は叔父。若き高倉天皇は叔父である平清盛と父・後白河上皇の対立の中で板挟み状態となっていました。
のちの安徳天皇誕生
治承2年(1178年)11月12日には嫡男(のちの安徳天皇)が誕生しました。
平清盛にとって自身に孫ができたことはとても好都合。孫が即位し天皇となれば、今まで以上に権力を握ることができるからです。
息子・安徳天皇の即位
さっそく翌年の治承3年(1179年)11月、平清盛は治承三年の政変と呼ばれるクーデターを起こし、後白河上皇を幽閉、院政を行えないようにします。
後白河上皇が院政を行えないとなれば、高倉天皇自らが政務を行うこととなりました。
しかし、平清盛と後白河上皇の対立に苦しんだ高倉天皇はその翌年の治承4年(1180年)2月、息子に譲位し、こうして安徳天皇の時代がはじまりました。
院政を始めるも間もなくして崩御
わずか数え年3歳で天皇となった安徳天皇。もちろん政務を行うことができません。
よって父親である高倉上皇が代わりに院政を行うこととなりますが、院政を始めるも、病に倒れ翌年の治承5年1月14日、21歳で亡くなりました。
安徳天皇の父・高倉天皇は生涯、後白河上皇と平清盛の板挟みに非常に苦しんだ人物でした。
父親である高倉天皇について簡単にまとめました。
ここから息子・安徳天皇についてまとめてみます↓
高倉天皇・平徳子から誕生した安徳天皇
治承2年11月12日(1178年12月22日)、安徳天皇は高倉天皇、平徳子の嫡男として誕生。
生まれてすぐの治承4年(1180年)4月22日に数え年3歳で即位し、第81第天皇となりました。
母方の祖父である平清盛は、父方の祖父である後白河上皇と対立関係にずっとあり、その間で父・高倉天皇はずっと悩まされてきました。
治承三年の政変
祖父・平清盛は天皇家の血をひく孫ができたことで、これ以上とない権力を掌握できると考え、さっそく後白河上皇を幽閉し、後白河上皇の院政をストップさせるといったクーデターを起こします。(治承三年の政変)
幼き安徳天皇は政務を行うことができないので、父・高倉天皇が院政を始めますが、開始すぐに崩御。こうして祖父である平清盛が政治の決定権を完全に持つようになりました。
また即位同年、平清盛は平安京から福原(現在の神戸)への遷都を計画します。結果、半年ほどで京都へ戻るのですが…まさに平清盛は栄華を極めたのです。
平清盛のこうしたやり方に反対するものは多く、ここで多くの反平家を生み出すこととなりました。
平清盛が好き放題している中、後白河上皇は幽閉、高倉天皇は崩御。誰も平家に逆らうことができなかったのです。
以仁王の挙兵、平家の討伐
誰も平家に逆らうことができなかった中、ついに不満が爆発し治承4年(1180年)後白河天皇の第三皇子・以仁王が源頼政の勧めで平家討伐に動き出します。この挙兵から源平合戦が始まることとなるのです。
しかしその後も平家討伐の動きは止まることなく、伊豆の源頼朝、信濃国の木曽義仲らが挙兵、治承4年(1180年)末までには西国、東国でも打倒平家の動きがありました。
祖父・平清盛の死後、都落ち
そんな中、祖父・平清盛が治承5年(1181年)2月27日、64歳で亡くなります。
平清盛を失った平家は寿永2年(1183年)倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲の京入りを許してしまうこととなり、都を守ることができなくなった平家は安徳天皇を連れ、京を発ち西国へと逃げるのでした。
その際、天皇の即位に必要な三種の神器(八咫鏡・天叢雲剣・八尺瓊勾玉)も持ち出しました。
平家は後白河上皇も連れ西国へと逃げる予定でしたが、後白河上皇は比叡山で身を隠し
都に残ったとされています。
京では後鳥羽天皇が即位
寿永2年(1183年)8月20日、京都では都に残った後白河上皇が安徳天皇の異母弟・尊成親王(のちの後鳥羽天皇)を即位させ、院政を開始しました。
即位の際には三種の神器が必要となりますが、平家が持ち出したため、三種の神器なしでの即位となったのです。
こうして寿永2年(1183年)から平家滅亡までの2年間、西国へ逃れた安徳天皇、都で即位した後鳥羽天皇。2人の天皇が治めることとなったのです。
屋島の戦いで敗北
西国へ逃れた平家は屋島(高松)に御所を作り、安徳天皇らはこの御所で約2年を過ごすこととなります。
拠点を屋島に置いた平家でしたが、寿永4年(1185年)2月19日、源義経率いる源氏軍との戦いに敗れ、海上へと逃れることとなります。(屋島の戦い)
壇ノ浦の戦いで敗北
こうして寿永4年(1185年)4月、源平合戦最後の戦いとなる壇ノ浦の戦いが始まりました。
戦いの場は海上であることから、水軍の運用に強い平家は序盤、源義経に攻めかかります。
しかし、潮の流れが変わると源氏方の反撃が開始。
平家の滅亡、安徳天皇の最期
敗北を悟った母・平徳子の弟である平知盛は二位尼(安徳天皇の祖母)や母・平徳子の乗る船に乗り込み、「これから珍しい東男をごろうじられますぞ」(これから京の都ではあまり見ることのなかった東国の武士がこの船にまいりますぞ。)と笑っていったそうです。
つまり、源氏の武士たちに捕らえられる前に自害せよ。と遠回しに言ったのです。
これを受け平家の敗北を悟った祖母・二位尼は安徳天皇を抱え入水の準備にかかります。
祖母に抱きかかえられた安徳天皇は「これからどこに行くの?」と聞きました。
「極楽浄土に行きましょう。波の下にも都はありますよ。」と答えたとされています。
そうして二位尼に抱きかかえられ、安徳天皇は満6歳4か月で入水し崩御しました。
この姿を見た母・平徳子や平家の武士たちも入水。
平徳子は源氏に救い出されますが、多くの平氏が亡くなり、平家は滅亡となりました。
三種の神器の行方
この際、三種の神器もともに海に沈められたとされていますが、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏によって回収されました。
残る宝剣は回収できず、現在ある宝剣は後に伊勢神宮から献上されたものとされています。
安徳天皇の生存説
安徳天皇は実は壇ノ浦の戦いで崩御せず、生き残っていたという生存説が全国各地に残っています。
などなど
安徳天皇を祀った赤間神社
もともと貞観元年(859年)に阿弥陀寺として創建されていました。
壇ノ浦の戦いの翌年、源頼朝が安徳天皇の魂を鎮めるためここに御影堂を建立します。
その後、明治になると廃仏毀釈の運動によって阿弥陀寺は廃され、赤間神社として残りました。
生き残った母・平徳子が平家滅亡後に「波の下にある竜宮に安徳天皇や二位尼らが過ごしていた」といった夢を見たそうで、この夢にちなんで、赤間神社は竜宮城を再現した造りとなっています。
おしまい
安徳天皇について簡単にまとめてみました。
幼くして亡くなった安徳天皇…
毎回、大河ドラマで壇ノ浦の戦いのシーンがあるとウルっとしちゃうんだよなあ…
おしまい